2014年03月21日
2013 年度活動報告
2013年度 佐賀在来知歴史研究会 活動報告 2013.4~2014.3
会議 第1回 2013.4,22 16:00-17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、高崎、竹下、生馬、伊香賀(敬称略)
第2回 2013.5.20 16:00-17:3
出席:長野、中村、鬼塚、高崎、竹下、伊香賀(敬称略)
第3回 2013.6.24 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および半田、ハドソン、高崎(敬称略)
第4回 2013.7.29 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および高崎(敬称略)
第5回 2013.9.9 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、高崎(敬称略)
第6回 2013.10.7. 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、大串、竹下、伊香賀、高崎(敬称略)
第7回2013.12.20. 17:30~20:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、高崎(敬称略)
在来知歴史学会の設立、規則などについて協議。中国側と調整を諮ることに決定。続いて忘年会兼古希祝賀会(中村、田端、鬼塚の三氏を祝う)。
第8回2014.1.20. 16:00~18:15
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
在来知歴史学会の人事、規則などについて決定。
第9回2014.2.10. 16:00~18:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
第10回2014.3..17. 16:00~18:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、大串、脇田(福大)、栗崎(福大)、沼子(千葉大)、藤井(佐賀近代史研究会、今回より参加)、田中(サガテレビ)、高崎(敬称略)
① 科研費脇田班の今年度の総括と来年度活動について。②発足を予定している在来知歴史学会の規約および役員について:副会長に大串さんの就任。③本年度ISHIK2012 シンポジウムを一日早く始める(24日開始、6日間)ことに。
④二国間交流事業の採用と申請。
会議 第1回 2013.4,22 16:00-17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、高崎、竹下、生馬、伊香賀(敬称略)
第2回 2013.5.20 16:00-17:3
出席:長野、中村、鬼塚、高崎、竹下、伊香賀(敬称略)
第3回 2013.6.24 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および半田、ハドソン、高崎(敬称略)
第4回 2013.7.29 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および高崎(敬称略)
第5回 2013.9.9 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、高崎(敬称略)
第6回 2013.10.7. 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、大串、竹下、伊香賀、高崎(敬称略)
第7回2013.12.20. 17:30~20:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、高崎(敬称略)
在来知歴史学会の設立、規則などについて協議。中国側と調整を諮ることに決定。続いて忘年会兼古希祝賀会(中村、田端、鬼塚の三氏を祝う)。
第8回2014.1.20. 16:00~18:15
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
在来知歴史学会の人事、規則などについて決定。
第9回2014.2.10. 16:00~18:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
第10回2014.3..17. 16:00~18:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、大串、脇田(福大)、栗崎(福大)、沼子(千葉大)、藤井(佐賀近代史研究会、今回より参加)、田中(サガテレビ)、高崎(敬称略)
① 科研費脇田班の今年度の総括と来年度活動について。②発足を予定している在来知歴史学会の規約および役員について:副会長に大串さんの就任。③本年度ISHIK2012 シンポジウムを一日早く始める(24日開始、6日間)ことに。
④二国間交流事業の採用と申請。
2014年03月21日
2013
2013年度 佐賀在来知歴史研究会 活動報告 2013.4~2014.3
会議 第1回 2013.4,22 16:00-17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、高崎、竹下、生馬、伊香賀(敬称略)
第2回 2013.5.20 16:00-17:3
出席:長野、中村、鬼塚、高崎、竹下、伊香賀(敬称略)
第3回 2013.6.24 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および半田、ハドソン、高崎(敬称略)
第4回 2013.7.29 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および高崎(敬称略)
第5回 2013.9.9 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、高崎(敬称略)
第6回 2013.10.7. 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、大串、竹下、伊香賀、高崎(敬称略)
第7回2013.12.20. 17:30~20:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、高崎(敬称略)
在来知歴史学会の設立、規則などについて協議。中国側と調整を諮ることに決定。続いて忘年会兼古希祝賀会(中村、田端、鬼塚の三氏を祝う)。
第8回2014.1.20. 16:00~18:15
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
在来知歴史学会の人事、規則などについて決定。
第9回2014.2.10. 16:00~18:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
第10回2014.3..17. 16:00~18:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、大串、脇田(福大)、栗崎(福大)、沼子(千葉大)、藤井(佐賀近代史研究会、今回より参加)、田中(サガテレビ)、高崎(敬称略)
① 科研費脇田班の今年度の総括と来年度活動について。②発足を予定している在来知歴史学会の規約および役員について:副会長に大串さんの就任。③本年度ISHIK2012 シンポジウムを一日早く始める(24日開始、6日間)ことに。
④二国間交流事業の採用と申請。
会議 第1回 2013.4,22 16:00-17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、高崎、竹下、生馬、伊香賀(敬称略)
第2回 2013.5.20 16:00-17:3
出席:長野、中村、鬼塚、高崎、竹下、伊香賀(敬称略)
第3回 2013.6.24 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および半田、ハドソン、高崎(敬称略)
第4回 2013.7.29 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および高崎(敬称略)
第5回 2013.9.9 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、高崎(敬称略)
第6回 2013.10.7. 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、大串、竹下、伊香賀、高崎(敬称略)
第7回2013.12.20. 17:30~20:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、高崎(敬称略)
在来知歴史学会の設立、規則などについて協議。中国側と調整を諮ることに決定。続いて忘年会兼古希祝賀会(中村、田端、鬼塚の三氏を祝う)。
第8回2014.1.20. 16:00~18:15
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
在来知歴史学会の人事、規則などについて決定。
第9回2014.2.10. 16:00~18:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
第10回2014.3..17. 16:00~18:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、大串、脇田(福大)、栗崎(福大)、沼子(千葉大)、藤井(佐賀近代史研究会、今回より参加)、田中(サガテレビ)、高崎(敬称略)
① 科研費脇田班の今年度の総括と来年度活動について。②発足を予定している在来知歴史学会の規約および役員について:副会長に大串さんの就任。③本年度ISHIK2012 シンポジウムを一日早く始める(24日開始、6日間)ことに。
④二国間交流事業の採用と申請。
2014年03月21日
2013
2013年度 佐賀在来知歴史研究会 活動報告 2013.4~2014.3
会議 第1回 2013.4,22 16:00-17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、高崎、竹下、生馬、伊香賀(敬称略)
第2回 2013.5.20 16:00-17:3
出席:長野、中村、鬼塚、高崎、竹下、伊香賀(敬称略)
第3回 2013.6.24 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および半田、ハドソン、高崎(敬称略)
第4回 2013.7.29 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および高崎(敬称略)
第5回 2013.9.9 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、高崎(敬称略)
第6回 2013.10.7. 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、大串、竹下、伊香賀、高崎(敬称略)
第7回2013.12.20. 17:30~20:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、高崎(敬称略)
在来知歴史学会の設立、規則などについて協議。中国側と調整を諮ることに決定。続いて忘年会兼古希祝賀会(中村、田端、鬼塚の三氏を祝う)。
第8回2014.1.20. 16:00~18:15
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
在来知歴史学会の人事、規則などについて決定。
第9回2014.2.10. 16:00~18:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
第10回2014.3..17. 16:00~18:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、大串、脇田(福大)、栗崎(福大)、沼子(千葉大)、藤井(佐賀近代史研究会、今回より参加)、田中(サガテレビ)、高崎(敬称略)
① 科研費脇田班の今年度の総括と来年度活動について。②発足を予定している在来知歴史学会の規約および役員について:副会長に大串さんの就任。③本年度ISHIK2012 シンポジウムを一日早く始める(24日開始、6日間)ことに。
④二国間交流事業の採用と申請。
会議 第1回 2013.4,22 16:00-17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、高崎、竹下、生馬、伊香賀(敬称略)
第2回 2013.5.20 16:00-17:3
出席:長野、中村、鬼塚、高崎、竹下、伊香賀(敬称略)
第3回 2013.6.24 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および半田、ハドソン、高崎(敬称略)
第4回 2013.7.29 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、田端、鬼塚、竹下、多久島、伊香賀および高崎(敬称略)
第5回 2013.9.9 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、高崎(敬称略)
第6回 2013.10.7. 16:00~17:30
出席:青木、長野、中村、大串、竹下、伊香賀、高崎(敬称略)
第7回2013.12.20. 17:30~20:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、高崎(敬称略)
在来知歴史学会の設立、規則などについて協議。中国側と調整を諮ることに決定。続いて忘年会兼古希祝賀会(中村、田端、鬼塚の三氏を祝う)。
第8回2014.1.20. 16:00~18:15
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
在来知歴史学会の人事、規則などについて決定。
第9回2014.2.10. 16:00~18:30
出席:青木、長野、中村、鬼塚、田端、竹下、大串、伊甲賀、高崎および脇田(敬称略)
第10回2014.3..17. 16:00~18:00
出席:青木、長野、中村、鬼塚、竹下、大串、脇田(福大)、栗崎(福大)、沼子(千葉大)、藤井(佐賀近代史研究会、今回より参加)、田中(サガテレビ)、高崎(敬称略)
① 科研費脇田班の今年度の総括と来年度活動について。②発足を予定している在来知歴史学会の規約および役員について:副会長に大串さんの就任。③本年度ISHIK2012 シンポジウムを一日早く始める(24日開始、6日間)ことに。
④二国間交流事業の採用と申請。
2014年03月19日
第4回在来知シンポジウム
在来知国際シンポジウムのご案内です。当初の予定では10月25日に参加者が集合することにしておりましたが、日程を一日延長して、
24日に集合、25日から開始することにしました。お気をつけ下さい。
The first Call for Paper
The 4th International Symposium on History of Indigenous Knowlege
(ISHIK 2014)
Saga, Japan
25-29 October, 2014
In Saga,Japan
Organized by:
The Society for History of Indigenous Knowledge (SHIK)
Cooperated by:
Saga University, Japan
Saga Prefecture, Japan
Saga City, Japan
The Society for the Western Learning in Japan
Research Society on History of Indigenous Knowledge, Japan
Chinese Academy of Social Sciences
Tsinghua University, China
Research Society on History of Science and Technology
and Social Development, China
Scope:
History of Indigenous Knowledge (HIK) aims to reveal the dynamism in the development of human knowledge by analyzing the interactive process of indigenization and innovation. It proposes a new synthesis of historical studies by combining the results of international cooperation from the perspective of exchange, interaction and creation of knowledge and technology.
The first International Symposium of History of Indigenous Knowledge (ISHIK 2011) was held in Beijing, China in 2011. The 2nd symposium (ISHIK 2012) was also successfully held in Saga, Japan in 2012. The 3rd symposium (ISHIK 2013) was also successfully held in Anyang, China in 2013. The purpose of the symposiums is to introduce the HIK by offering a place of interdisciplinary discussions among history of science and technology, history of industry, history of economy and scientific studies on cultural properties. Our symposium also addresses problems such as the explosion of information in historical studies, the construction of new interdisciplinary network, and the establishment of a new perspective to analyze local history in the international context.
In this year we have just established The Society for History of Indigenous Knowledge (SHIK) in order to have the ISHIK smoothly and more successfully. We will have the 4th symposium (ISHK 2014), held in Saga Japan again in 2014, which is organized by The Society for History of Indigenous Knowledge (SHIK). We expect that many researchers show interest in ISHIK2014 and attend it.
Topics include but are not limited to:
All topics of history of Indigenous knowledge are well come.
History of scientific technique, history of medicine, history of iron industry, history of industry, history of technical education, science of cultural assets, preservation of cultural assets, analysis of material, analysis of graph, Japan history, China history、international history. In this ISHK 2014, additionally, a special session of environmental pollution and its counter plans will be organized
Post symposium tour:
After the meeting, historical visit to Kumamoto Castle and Mount Aso will be arranged.
Language:
Official language at the conference is English, Japanese, and Chinese with translations. This means that abstracts should be written in English but main body of the papers can be written in any languages. We can communicate in any languages with translation between Japanese and Chinese for our discussion.
Review Process, Proceedings:
The Program Committee will review all submitted papers and decide on the acceptance. Full versions of the accepted contributions will be published in the proceedings (with ISBN 978-4-9906649-2-3) available at the conference.
Important Dates:
Submission of Extended Abstracts for Papers 1 April 2014
Submission of Papers 1 June 2014
Notification of Paper Acceptance 1 August 2014
Submission of Final Camera-ready Papers 1 September 2014
Pre-registration 1 September 2014
Organizing Committees
-General Chairs
Koichiro OHGUSHI (Saga University)
Yi LI (Chinese Academy of Social Sciences)
Organizing Chairs
Toshiyuki AOKI (Saga University)
Yi LI (Chinese Academy of Social Sciences)
- Program Chairs
Masatoshi NAKAMURA (Saga University)
Tao ZHANG (Tsinghua University)
-Local Arrangement Chair
Toshiyuki AOKI (Saga University)
Susumu NAGANO (Saga University)
Takashi IKOGA (Postdoctoral fellow, Saga University)
-International Relations Chairs
Masatoshi NAKAMURA (Saga University)
Tao ZHANG (Tsinghua University)
-Publicity Chair
Susumu NAGANO (Saga University)
Yozo TAKASAKI (Saga University)
Masaaki TABATA (Saga University)
-Secretariats
Sachiko JYOYU (Saga University)
Yueju NI (Chinese Academy of Social Sciences)
-International Program Committee Members
Susumu NAGANO (Saga University)
Toshiyuki AOKI (Saga University)
Maiko FUKUDA (Tsurumi University)
Masaaki TABATA (Saga University)
Yozo TAKASAKI (Saga University)
Koichiro OHGUSHI (Saga University)
Wolfgang MICHEL (Kyushu University)
Hisanobu WAKITA (Fukuoka University)
Katsutada ONITSUKA (Saga University)
Takashi IKOGA (Saga University)
Eisuke SAGARA (Hiroshima University of Economics)
Masatoshi NAKAMURA (Saga University)
Yi LI (Chinese Academy of Social Sciences)
Tao ZHANG (Tsinghua University)
Li WU (Chinese Academy of Social Sciences)
Zhengping CHEN (Tsinghua University)
Jian ZHOU (Chinese Academy of Social Sciences)
Jian CHEN (Renmin University of China)
Lixian YAN (Chinese Academy of Social Sciences)
Yahua NIU (China Academy of Chinese Medical Sciences)
Yueju NI (Chinese Academy of Social Sciences)
Ming LEI (Nankai University)
Yingui ZHU (Fudan University)
Guiyang ZHUANG (Chinese Academy of Social Sciences)
Rongyu SU (Chinese Academy of Sciences)
Jigeng TANG (Chinese Academy of Social Sciences)
Jianguo SUN (Henan University)
Bai LIN (Shanxi University)
24日に集合、25日から開始することにしました。お気をつけ下さい。
The first Call for Paper
The 4th International Symposium on History of Indigenous Knowlege
(ISHIK 2014)
Saga, Japan
25-29 October, 2014
In Saga,Japan
Organized by:
The Society for History of Indigenous Knowledge (SHIK)
Cooperated by:
Saga University, Japan
Saga Prefecture, Japan
Saga City, Japan
The Society for the Western Learning in Japan
Research Society on History of Indigenous Knowledge, Japan
Chinese Academy of Social Sciences
Tsinghua University, China
Research Society on History of Science and Technology
and Social Development, China
Scope:
History of Indigenous Knowledge (HIK) aims to reveal the dynamism in the development of human knowledge by analyzing the interactive process of indigenization and innovation. It proposes a new synthesis of historical studies by combining the results of international cooperation from the perspective of exchange, interaction and creation of knowledge and technology.
The first International Symposium of History of Indigenous Knowledge (ISHIK 2011) was held in Beijing, China in 2011. The 2nd symposium (ISHIK 2012) was also successfully held in Saga, Japan in 2012. The 3rd symposium (ISHIK 2013) was also successfully held in Anyang, China in 2013. The purpose of the symposiums is to introduce the HIK by offering a place of interdisciplinary discussions among history of science and technology, history of industry, history of economy and scientific studies on cultural properties. Our symposium also addresses problems such as the explosion of information in historical studies, the construction of new interdisciplinary network, and the establishment of a new perspective to analyze local history in the international context.
In this year we have just established The Society for History of Indigenous Knowledge (SHIK) in order to have the ISHIK smoothly and more successfully. We will have the 4th symposium (ISHK 2014), held in Saga Japan again in 2014, which is organized by The Society for History of Indigenous Knowledge (SHIK). We expect that many researchers show interest in ISHIK2014 and attend it.
Topics include but are not limited to:
All topics of history of Indigenous knowledge are well come.
History of scientific technique, history of medicine, history of iron industry, history of industry, history of technical education, science of cultural assets, preservation of cultural assets, analysis of material, analysis of graph, Japan history, China history、international history. In this ISHK 2014, additionally, a special session of environmental pollution and its counter plans will be organized
Post symposium tour:
After the meeting, historical visit to Kumamoto Castle and Mount Aso will be arranged.
Language:
Official language at the conference is English, Japanese, and Chinese with translations. This means that abstracts should be written in English but main body of the papers can be written in any languages. We can communicate in any languages with translation between Japanese and Chinese for our discussion.
Review Process, Proceedings:
The Program Committee will review all submitted papers and decide on the acceptance. Full versions of the accepted contributions will be published in the proceedings (with ISBN 978-4-9906649-2-3) available at the conference.
Important Dates:
Submission of Extended Abstracts for Papers 1 April 2014
Submission of Papers 1 June 2014
Notification of Paper Acceptance 1 August 2014
Submission of Final Camera-ready Papers 1 September 2014
Pre-registration 1 September 2014
Organizing Committees
-General Chairs
Koichiro OHGUSHI (Saga University)
Yi LI (Chinese Academy of Social Sciences)
Organizing Chairs
Toshiyuki AOKI (Saga University)
Yi LI (Chinese Academy of Social Sciences)
- Program Chairs
Masatoshi NAKAMURA (Saga University)
Tao ZHANG (Tsinghua University)
-Local Arrangement Chair
Toshiyuki AOKI (Saga University)
Susumu NAGANO (Saga University)
Takashi IKOGA (Postdoctoral fellow, Saga University)
-International Relations Chairs
Masatoshi NAKAMURA (Saga University)
Tao ZHANG (Tsinghua University)
-Publicity Chair
Susumu NAGANO (Saga University)
Yozo TAKASAKI (Saga University)
Masaaki TABATA (Saga University)
-Secretariats
Sachiko JYOYU (Saga University)
Yueju NI (Chinese Academy of Social Sciences)
-International Program Committee Members
Susumu NAGANO (Saga University)
Toshiyuki AOKI (Saga University)
Maiko FUKUDA (Tsurumi University)
Masaaki TABATA (Saga University)
Yozo TAKASAKI (Saga University)
Koichiro OHGUSHI (Saga University)
Wolfgang MICHEL (Kyushu University)
Hisanobu WAKITA (Fukuoka University)
Katsutada ONITSUKA (Saga University)
Takashi IKOGA (Saga University)
Eisuke SAGARA (Hiroshima University of Economics)
Masatoshi NAKAMURA (Saga University)
Yi LI (Chinese Academy of Social Sciences)
Tao ZHANG (Tsinghua University)
Li WU (Chinese Academy of Social Sciences)
Zhengping CHEN (Tsinghua University)
Jian ZHOU (Chinese Academy of Social Sciences)
Jian CHEN (Renmin University of China)
Lixian YAN (Chinese Academy of Social Sciences)
Yahua NIU (China Academy of Chinese Medical Sciences)
Yueju NI (Chinese Academy of Social Sciences)
Ming LEI (Nankai University)
Yingui ZHU (Fudan University)
Guiyang ZHUANG (Chinese Academy of Social Sciences)
Rongyu SU (Chinese Academy of Sciences)
Jigeng TANG (Chinese Academy of Social Sciences)
Jianguo SUN (Henan University)
Bai LIN (Shanxi University)
2013年08月02日
「吉野ヶ里墳丘墓の築造は北部九州・弥生人の知恵」
佐賀大学名誉教授・鬼塚克忠氏に上記タイトルのような投稿を頂きました。
吉野ヶ里墳丘墓
吉野ヶ里墳丘墓(紀元前150年頃)は我が国最古の巨大な盛土(もりど:人工的に盛った土)構造物です.図-1を参照下さい.墳丘墓の築造は,はじめに1m前後,土を平らに盛ってその上に,いくつかの小山を締め固めて築き,小山の間に土を盛って水平に締固める.その上にまた小山を築くという操作を繰り返したようです(図-1(d) から推察可能).大きさは,およそ50mプールの面積で高さは2.5m(かっては4~5m)です.14個の甕棺と共に数々の副葬品が出土しました.甕棺は墳丘(盛土)に孔を掘って埋設し,高密に土を埋め戻したものです.
墳丘の中心部は異なる土を1層10~30cmの厚さに層状に,しかも密に締固めています.図-1(b) は「版築様(状)断面」と呼ばれていますが,私は「層築(そうちく)」と名付けました.「版築(はんちく)」は「土壁や土壇の構築方法で,板で枠を作り,土をその中に盛り,一層ずつ杵で突き固めるもの.古くは中国の竜山文化に始まり現在まで存続(広辞苑)」のように,今から4~5千年も前に黄河中流域(黄土地帯)で生まれた盛土築造技術です.粘着性が少なく,水による著しい沈下(コラプス現象)を起こす黄土を用いて,強度と耐久性を要する城壁や基壇を築造するために必要な技術が「版築」でした.
しかし吉野ヶ里では版築であると判断するための枠板や杵は見つかっていません.粘着性があり,水を比較的たくさん含んでいる火山灰土・阿蘇4(9万年前)の吉野ヶ里では,版築より簡単な足踏みで締固めたのではないかと考えています.盛土の北側の一部は図-1(c) のように雑に盛り上げただけで,「堆築(たいちく)」と呼ぶべきものです.
中国江南の土墩墓
この墳丘墓の築造技術のルーツは中国江南の土墩墓(どとんぼ)だと考えています.「墩(とん)」は土饅頭の意味で,土を盛り上げた墓です.長江下流域には吉野ヶ里墳丘墓にそっくりな土墩墓が数限りなく存在します.西周時代から戦国時代(紀元前千百年~紀元前2百年)にかけてのもので,一般に直径が10~40m,高さが2~7mです.中には北の始皇帝陵と並び称せられる南の越王陵(会稽,現在は紹興)のように,山の頂部を切り開いて版築工法で盛土した巨大なものもあります.
土墩墓は基本的には高い地盤上に遺体を置き,その上に土を盛り上げたものですが,時代とともに,また被葬者の位が高くなると,木棺や石棺(石板の棺)に埋葬するようになり,丁寧な層状の締固めの層築や版築の墳丘も出現します.
温暖湿潤の長江流域では遺体を水から守るために遺体は高い地盤上,あるいは盛土(墳丘)内に置きます.これは,古来の地下に穴を掘って遺体を埋葬する土壙墓(どこうぼ)すなわち地下埋葬から,地上埋葬への画期的な墓制の変革です.
いっぽう寒冷乾燥の黄河流域では水の心配はあまりなく,古くから地下に遺体を埋葬し,目印としてその上に盛土しました.秦の始皇帝陵は巨大盛土ですが,埋葬施設は地下にあり,盛土内には何もありません.黄河下流域の山東省の海岸ぞいに,土墩墓そっくりの墳墓群が発見され,考古関係者の注目を浴びています.この江南の土墩墓の築造技術が黄河下流域の山東省に伝達したと考えられます.前漢から後漢(およそ紀元前2百年~紀元2百年)に造られたもので,中国では「漢墓」と呼ばれています.山東省の墳墓も基本的には地下に埋葬しています.木棺・木槨墓です.
築造技術の伝播と甕棺
中国江南の土墩墓の築造技術が海を経由して直接に,もしくは山東省を経由して,北部九州・吉野ヶ里に伝わったと考えます.図-2に土墩墓と墳丘墓の相違および築造技術の伝播を示します.後漢の武帝が朝鮮半島支配のため,半島北部,現在のピョンヤンの近くに楽浪郡(紀元前108年)を設置します.確かに旧楽浪郡に山東省の墳墓に似たたくさんの墳墓(木棺,木槨,塼(せん)槨)が造られています.埋葬施設はいずれも地下設置です.しかし,朝鮮半島南部,すなわち現在の韓国には吉野ヶ里墳丘墓より古い墳墓は見つかっていません.盛土内から多数の木棺が出土した大阪の加美遺跡は,楽浪墳墓の影響を受けているともいわれていますが,吉野ヶ里墳丘墓より少し後のものです.これらのことから,中国の築造技術の吉野ヶ里への伝播(でんぱ)は,朝鮮半島経由はあり得ない,と考えるのです.もちろん,当時の北部九州と朝鮮半島との文化や技術など,さまざまな交流を否定するものではありません.
吉野ヶ里墳丘墓は丘陵の最高地点(標高25m)にあり,浸水の恐れはあまりないと思われますが,甕棺はその盛土内に埋葬され,中国江南の土墩墓と同じ地上埋葬です.吉野ヶ里の弥生人は,江南と同じ温暖多湿の気象を考慮したのでしょう.甕棺は木棺や木槨に比べて腐食がなく,当時としては遺体の保存に適した埋葬設備です.北部九州でたくさん出土する大型甕棺は中国・朝鮮半島ではほとんど見られず,弥生人独自の優れた考案であると確信します.中国江南の地上埋葬の築造技術(外来知)を選択し,独自の甕棺埋葬の先進知を開発した吉野ヶ里の弥生人は,その後の日本の盛土構築技術と地上埋葬の先鞭を付けたと言えるでしょう.(なお,本文は,邪馬台国を考える会会誌「卑弥呼の声が聞こえる」第2号,2012に投稿したものを一部書き直しました.)
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吉野ヶ里墳丘墓
吉野ヶ里墳丘墓(紀元前150年頃)は我が国最古の巨大な盛土(もりど:人工的に盛った土)構造物です.図-1を参照下さい.墳丘墓の築造は,はじめに1m前後,土を平らに盛ってその上に,いくつかの小山を締め固めて築き,小山の間に土を盛って水平に締固める.その上にまた小山を築くという操作を繰り返したようです(図-1(d) から推察可能).大きさは,およそ50mプールの面積で高さは2.5m(かっては4~5m)です.14個の甕棺と共に数々の副葬品が出土しました.甕棺は墳丘(盛土)に孔を掘って埋設し,高密に土を埋め戻したものです.
墳丘の中心部は異なる土を1層10~30cmの厚さに層状に,しかも密に締固めています.図-1(b) は「版築様(状)断面」と呼ばれていますが,私は「層築(そうちく)」と名付けました.「版築(はんちく)」は「土壁や土壇の構築方法で,板で枠を作り,土をその中に盛り,一層ずつ杵で突き固めるもの.古くは中国の竜山文化に始まり現在まで存続(広辞苑)」のように,今から4~5千年も前に黄河中流域(黄土地帯)で生まれた盛土築造技術です.粘着性が少なく,水による著しい沈下(コラプス現象)を起こす黄土を用いて,強度と耐久性を要する城壁や基壇を築造するために必要な技術が「版築」でした.
しかし吉野ヶ里では版築であると判断するための枠板や杵は見つかっていません.粘着性があり,水を比較的たくさん含んでいる火山灰土・阿蘇4(9万年前)の吉野ヶ里では,版築より簡単な足踏みで締固めたのではないかと考えています.盛土の北側の一部は図-1(c) のように雑に盛り上げただけで,「堆築(たいちく)」と呼ぶべきものです.
中国江南の土墩墓
この墳丘墓の築造技術のルーツは中国江南の土墩墓(どとんぼ)だと考えています.「墩(とん)」は土饅頭の意味で,土を盛り上げた墓です.長江下流域には吉野ヶ里墳丘墓にそっくりな土墩墓が数限りなく存在します.西周時代から戦国時代(紀元前千百年~紀元前2百年)にかけてのもので,一般に直径が10~40m,高さが2~7mです.中には北の始皇帝陵と並び称せられる南の越王陵(会稽,現在は紹興)のように,山の頂部を切り開いて版築工法で盛土した巨大なものもあります.
土墩墓は基本的には高い地盤上に遺体を置き,その上に土を盛り上げたものですが,時代とともに,また被葬者の位が高くなると,木棺や石棺(石板の棺)に埋葬するようになり,丁寧な層状の締固めの層築や版築の墳丘も出現します.
温暖湿潤の長江流域では遺体を水から守るために遺体は高い地盤上,あるいは盛土(墳丘)内に置きます.これは,古来の地下に穴を掘って遺体を埋葬する土壙墓(どこうぼ)すなわち地下埋葬から,地上埋葬への画期的な墓制の変革です.
いっぽう寒冷乾燥の黄河流域では水の心配はあまりなく,古くから地下に遺体を埋葬し,目印としてその上に盛土しました.秦の始皇帝陵は巨大盛土ですが,埋葬施設は地下にあり,盛土内には何もありません.黄河下流域の山東省の海岸ぞいに,土墩墓そっくりの墳墓群が発見され,考古関係者の注目を浴びています.この江南の土墩墓の築造技術が黄河下流域の山東省に伝達したと考えられます.前漢から後漢(およそ紀元前2百年~紀元2百年)に造られたもので,中国では「漢墓」と呼ばれています.山東省の墳墓も基本的には地下に埋葬しています.木棺・木槨墓です.
築造技術の伝播と甕棺
中国江南の土墩墓の築造技術が海を経由して直接に,もしくは山東省を経由して,北部九州・吉野ヶ里に伝わったと考えます.図-2に土墩墓と墳丘墓の相違および築造技術の伝播を示します.後漢の武帝が朝鮮半島支配のため,半島北部,現在のピョンヤンの近くに楽浪郡(紀元前108年)を設置します.確かに旧楽浪郡に山東省の墳墓に似たたくさんの墳墓(木棺,木槨,塼(せん)槨)が造られています.埋葬施設はいずれも地下設置です.しかし,朝鮮半島南部,すなわち現在の韓国には吉野ヶ里墳丘墓より古い墳墓は見つかっていません.盛土内から多数の木棺が出土した大阪の加美遺跡は,楽浪墳墓の影響を受けているともいわれていますが,吉野ヶ里墳丘墓より少し後のものです.これらのことから,中国の築造技術の吉野ヶ里への伝播(でんぱ)は,朝鮮半島経由はあり得ない,と考えるのです.もちろん,当時の北部九州と朝鮮半島との文化や技術など,さまざまな交流を否定するものではありません.
吉野ヶ里墳丘墓は丘陵の最高地点(標高25m)にあり,浸水の恐れはあまりないと思われますが,甕棺はその盛土内に埋葬され,中国江南の土墩墓と同じ地上埋葬です.吉野ヶ里の弥生人は,江南と同じ温暖多湿の気象を考慮したのでしょう.甕棺は木棺や木槨に比べて腐食がなく,当時としては遺体の保存に適した埋葬設備です.北部九州でたくさん出土する大型甕棺は中国・朝鮮半島ではほとんど見られず,弥生人独自の優れた考案であると確信します.中国江南の地上埋葬の築造技術(外来知)を選択し,独自の甕棺埋葬の先進知を開発した吉野ヶ里の弥生人は,その後の日本の盛土構築技術と地上埋葬の先鞭を付けたと言えるでしょう.(なお,本文は,邪馬台国を考える会会誌「卑弥呼の声が聞こえる」第2号,2012に投稿したものを一部書き直しました.)
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2013年04月25日
2012年度活動報告
在来知佐賀歴史研究会 2012年度活動報告 (2012.4 - 2013.3)
会議 4/16, 5/14, 6/12, 7/23, 8/16, 9/10, 9/24, 11/19, 12/18, 1/15
主に、①10月に実施した「第2回在来知歴史学国際シンポジウム in 佐賀」
の運営、要旨集 (ISHIK 2012) の編纂、資金の準備、会計、総括などと、②本研究会の今後の方針と、③2013年度中国・安陽で開か れる第3回国際シンポへの取り組み、を討議してきた。
発表
1.大串浩一郎氏(理工学部) 「佐賀平野における流域治水に関する調査研究」 2012.5.14
2.片倉日龍雄氏(幕末佐賀研究会)「幕末佐賀藩の情報収集と海防体制」 2012.6.12
3.渡孝則氏(理工学部) 「ユニークなセラミック材料」 2012.7.9
4.角縁 進氏(文化教育学部)「石を読む -岩石から分かることー」 2012.9.24
5.甲本達也氏(名誉教授)「エジプトのピラミッド石は人造石か?」 2012.11.12
6.勝木宏昭氏(佐賀県窯業技術センター所長) 2012.12.18
7.本間雄治氏(大川未来塾・みなくるSAGA理事) 「デ・レイケ導流堤の謎と大隈重信の影」2013..3.11
活動報告
4・3 および 5.12唐津鉄工所訪問(長野&高崎)
5.22 東亜機工訪問(長野&高崎)
5.8 福大・脇田研での科研費班会議
8.8~8.10 出雲・たたら製鉄史跡および兵庫・三木市訪問(青木ら5名)
10・18 冷泉家当主の講演(高崎、渡)
10.25~28 佐賀市、長崎市における国際シンポ
11.30~12.2 盛岡出張(長野&高崎)
1・18~20 東芝科学館および犬山出張(高崎)
1・29および2.2 福岡県芦屋町芦屋釜の里(高崎、長野&田端)
2.23 佐賀伝承遺産研究会主催「田中久重」シンポジウム(長野、高崎)
会議 4/16, 5/14, 6/12, 7/23, 8/16, 9/10, 9/24, 11/19, 12/18, 1/15
主に、①10月に実施した「第2回在来知歴史学国際シンポジウム in 佐賀」
の運営、要旨集 (ISHIK 2012) の編纂、資金の準備、会計、総括などと、②本研究会の今後の方針と、③2013年度中国・安陽で開か れる第3回国際シンポへの取り組み、を討議してきた。
発表
1.大串浩一郎氏(理工学部) 「佐賀平野における流域治水に関する調査研究」 2012.5.14
2.片倉日龍雄氏(幕末佐賀研究会)「幕末佐賀藩の情報収集と海防体制」 2012.6.12
3.渡孝則氏(理工学部) 「ユニークなセラミック材料」 2012.7.9
4.角縁 進氏(文化教育学部)「石を読む -岩石から分かることー」 2012.9.24
5.甲本達也氏(名誉教授)「エジプトのピラミッド石は人造石か?」 2012.11.12
6.勝木宏昭氏(佐賀県窯業技術センター所長) 2012.12.18
7.本間雄治氏(大川未来塾・みなくるSAGA理事) 「デ・レイケ導流堤の謎と大隈重信の影」2013..3.11
活動報告
4・3 および 5.12唐津鉄工所訪問(長野&高崎)
5.22 東亜機工訪問(長野&高崎)
5.8 福大・脇田研での科研費班会議
8.8~8.10 出雲・たたら製鉄史跡および兵庫・三木市訪問(青木ら5名)
10・18 冷泉家当主の講演(高崎、渡)
10.25~28 佐賀市、長崎市における国際シンポ
11.30~12.2 盛岡出張(長野&高崎)
1・18~20 東芝科学館および犬山出張(高崎)
1・29および2.2 福岡県芦屋町芦屋釜の里(高崎、長野&田端)
2.23 佐賀伝承遺産研究会主催「田中久重」シンポジウム(長野、高崎)
2013年03月14日
神話の国島根の鉱山跡をたどる
またまた私が書かせてもらいます。昨年夏に、島根県等で調査した事と石見銀山を旅した思い出を書いてアカデミア21に投稿していたのですが、時間が経ってきたので、この場を借りて以下に報告させてもらいます。
神話の国島根の鉱山跡をたどる
高崎洋三
2012年8月8~9日に、アカデミア21会長の田端先生ほか2名の名誉教授それに現役の青木先生を引率して、出雲地方のたたら製鉄操業跡を訪問・調査した。まず、雲南市吉田の会場を借りて、広島経済大学の相良英輔教授らの「たたら操業」に関する研究発表を拝聴するなどの勉強会を行なった。その前後に訪ねた最後のたたら製鉄の場である「菅谷たたら」は、訪問者に大きな衝撃を与えたようだ。霊気漂う暗い作業場である。よく知られるように、砂鉄に含まれる酸化鉄と木炭を高温で反応させて還元鉄を得るわけだが、3日間続く過酷な作業の結果は、様々な条件(温度、湿度、材料のロットなど)によって異なる。出雲には木炭の原料となる奥深い山林と豊かな砂鉄が眠っており、たたら製鉄には適している。だが実験室で行なう実験とは違うから、再現性のあるデータは望めない。そこで、一人の女神を信仰して良い結果を得ようとする。名前を金屋子という。意地の悪い女神だそうで、例えば操業の場に死体を置いていないと、ケラと呼ばれる鋼の収量が低くなると伝えられた。この女神を祭る神社は広瀬町にあるが、実は出雲の至る所に分祀してある。九州でも祭られている。金屋子神の意向に沿わないと、高い収率は望めないからだ。そのため、作業の指揮をとる村下(むらげ)とその家族の苦労は大変だったようだ。
菅谷たたらの後は、旧吉田村にある「鉄の歴史村」の諸施設を巡り、国民宿舎に一泊した。この日は、出雲藩三大鉄山師の一つ田部(たなべ)家の成果や勢力・威光に感服した日であった。翌9日は、まず鉄山師の一つ櫻井家を訪問した。広島県との境に近い山奥にあるが、ご当主は89才、しゃきっとした紳士である(写真)。この地に、松平治郷(不昧公)をはじめとする出雲藩主が六度もやって来た。立派な茶室も残っている。また南画家の田能村竹田の弟子で養子でもある直入も暫く滞在していて、彼の作品が何点か陳列してあった。
話は脱線するが、田能村直入には次のような寓話がある。明治15年、お雇い外国人フェノロサが日本美術論と題した講演で、「南画は絵に非ず」と南画や文人画を非難した。彼は狩野永徳に傾倒していたが、墨で書かれた南画が理解できなかった。これに対して直入が立ちあがって、堂々と質問・反論したのだ。しかし政府高官達はそれを無視し、以後南画は衰退していったのだ。
櫻井家の誇る銘鉄「菊一印」は出雲で最高の製品と評価されている。次は、旧横田町にある日本美術刀剣保存協会(日刀保)に行き、最後の村下といわれる木原明氏に会ったり、明治期に活躍した角炉を見学した。そうして旧広瀬町にある上述の金屋子神社を経て、尼子一族の眠る月山富田城跡を右に見て、安来に入っていった。ここには、現在一ケ所だけ砂鉄を原料に製鉄を行なっている日立金属の工場があり、日本刀の素材を作っている。そして付設してある和鋼博物館を見学した。
ここまでが出雲地方のたたら製鉄の史跡探訪記である。日本史の中でこのような巨大産業がずっと生き延び、社会に大きな影響を及ぼしたものは他にない。古事記の4割の舞台となった出雲とたたら操業とは大いに関係があるようだ。私が奥出雲を訪れたのはこれで4度目だが、常に感動を覚えるのである。
次週の8月17日、妻と車を駆って今度は石見銀山に出かけた。あまり意識していなかったが、江戸・明治期には、島根県の東部出雲地方で鉄が作られ西部石見地方で銀が採掘されていた訳だ。多くの人手を使い、大金を稼いでいた筈である。休憩を入れて5時間ほどで石見銀山に到着した。だが、たたらの山内や銀山の坑道って、どうしてこんな山奥にあるのだろう。中国山地は後発の生野銀山も含めてまさに宝のヤマだけど、現代の都会からは遠く離れている。不便である。
鉄資源は大陸渡来の経験や勘を生かして発見されるが、金や銀は簡単に見つかるようだ。そういった資源を持つ山は光を発するからである。石見銀山も同様な発見のされ方をした。そして徳川幕府の下、掘り尽くされた。一時は世界の銀の3分の1を生産したこの鉱山が枯渇し、生野に道を譲り閉山するのは早かった。しかし幸いにも、それ以上荒廃しなかったのだろう。地域一体となった保護活動も結実したのだろう。2007年に世界遺産に登録された。登録に大いに貢献された京都国立博物館の村上隆氏のお話を聞いたことがある。彼等が登録に成功するまでの努力と戦略は大変素晴らしいものがある。温泉津(ゆのつ)から鉱山そして住居までの広い地域を保護地区とし、生活や交通を制限して、観光客にもそれを課した。こんな困難はあっても、今もこの山奥の史跡を訪れる人々は多い。
我々は中国自動車道を東上し、千代田JCTから浜田道に入り江津方面へ向かった。あとはカーナビのお世話になり、やっと石見銀山世界遺産センターに到着した。ここからは皆がバスに乗って、今は銀山資料館となっている大森代官所跡に行く。この界隈の居住地域を見て、電動自転車に乗って龍源寺間歩(まぶ)という抗口に行った。現在公開されている唯一の坑道だそうだ。坑道は明るく、よく整備してあった。ノミを振るった岩盤や奥深くまで堀り進んだ坑道はよく整備してあった。
大森の界隈は今やレトロな街並みを作って、観光客を招いている。中でも銀山の御用を司った熊谷家と役人だった河島家は、往時の家財道具を陳列していた。温泉津で一泊して、翌日は最大の大久保間歩を訪れる予定だったが、都合が悪くなり、遺産センターを見学して佐賀に帰った次第である。
神話の国島根の鉱山跡をたどる
高崎洋三
2012年8月8~9日に、アカデミア21会長の田端先生ほか2名の名誉教授それに現役の青木先生を引率して、出雲地方のたたら製鉄操業跡を訪問・調査した。まず、雲南市吉田の会場を借りて、広島経済大学の相良英輔教授らの「たたら操業」に関する研究発表を拝聴するなどの勉強会を行なった。その前後に訪ねた最後のたたら製鉄の場である「菅谷たたら」は、訪問者に大きな衝撃を与えたようだ。霊気漂う暗い作業場である。よく知られるように、砂鉄に含まれる酸化鉄と木炭を高温で反応させて還元鉄を得るわけだが、3日間続く過酷な作業の結果は、様々な条件(温度、湿度、材料のロットなど)によって異なる。出雲には木炭の原料となる奥深い山林と豊かな砂鉄が眠っており、たたら製鉄には適している。だが実験室で行なう実験とは違うから、再現性のあるデータは望めない。そこで、一人の女神を信仰して良い結果を得ようとする。名前を金屋子という。意地の悪い女神だそうで、例えば操業の場に死体を置いていないと、ケラと呼ばれる鋼の収量が低くなると伝えられた。この女神を祭る神社は広瀬町にあるが、実は出雲の至る所に分祀してある。九州でも祭られている。金屋子神の意向に沿わないと、高い収率は望めないからだ。そのため、作業の指揮をとる村下(むらげ)とその家族の苦労は大変だったようだ。
菅谷たたらの後は、旧吉田村にある「鉄の歴史村」の諸施設を巡り、国民宿舎に一泊した。この日は、出雲藩三大鉄山師の一つ田部(たなべ)家の成果や勢力・威光に感服した日であった。翌9日は、まず鉄山師の一つ櫻井家を訪問した。広島県との境に近い山奥にあるが、ご当主は89才、しゃきっとした紳士である(写真)。この地に、松平治郷(不昧公)をはじめとする出雲藩主が六度もやって来た。立派な茶室も残っている。また南画家の田能村竹田の弟子で養子でもある直入も暫く滞在していて、彼の作品が何点か陳列してあった。
話は脱線するが、田能村直入には次のような寓話がある。明治15年、お雇い外国人フェノロサが日本美術論と題した講演で、「南画は絵に非ず」と南画や文人画を非難した。彼は狩野永徳に傾倒していたが、墨で書かれた南画が理解できなかった。これに対して直入が立ちあがって、堂々と質問・反論したのだ。しかし政府高官達はそれを無視し、以後南画は衰退していったのだ。
櫻井家の誇る銘鉄「菊一印」は出雲で最高の製品と評価されている。次は、旧横田町にある日本美術刀剣保存協会(日刀保)に行き、最後の村下といわれる木原明氏に会ったり、明治期に活躍した角炉を見学した。そうして旧広瀬町にある上述の金屋子神社を経て、尼子一族の眠る月山富田城跡を右に見て、安来に入っていった。ここには、現在一ケ所だけ砂鉄を原料に製鉄を行なっている日立金属の工場があり、日本刀の素材を作っている。そして付設してある和鋼博物館を見学した。
ここまでが出雲地方のたたら製鉄の史跡探訪記である。日本史の中でこのような巨大産業がずっと生き延び、社会に大きな影響を及ぼしたものは他にない。古事記の4割の舞台となった出雲とたたら操業とは大いに関係があるようだ。私が奥出雲を訪れたのはこれで4度目だが、常に感動を覚えるのである。
次週の8月17日、妻と車を駆って今度は石見銀山に出かけた。あまり意識していなかったが、江戸・明治期には、島根県の東部出雲地方で鉄が作られ西部石見地方で銀が採掘されていた訳だ。多くの人手を使い、大金を稼いでいた筈である。休憩を入れて5時間ほどで石見銀山に到着した。だが、たたらの山内や銀山の坑道って、どうしてこんな山奥にあるのだろう。中国山地は後発の生野銀山も含めてまさに宝のヤマだけど、現代の都会からは遠く離れている。不便である。
鉄資源は大陸渡来の経験や勘を生かして発見されるが、金や銀は簡単に見つかるようだ。そういった資源を持つ山は光を発するからである。石見銀山も同様な発見のされ方をした。そして徳川幕府の下、掘り尽くされた。一時は世界の銀の3分の1を生産したこの鉱山が枯渇し、生野に道を譲り閉山するのは早かった。しかし幸いにも、それ以上荒廃しなかったのだろう。地域一体となった保護活動も結実したのだろう。2007年に世界遺産に登録された。登録に大いに貢献された京都国立博物館の村上隆氏のお話を聞いたことがある。彼等が登録に成功するまでの努力と戦略は大変素晴らしいものがある。温泉津(ゆのつ)から鉱山そして住居までの広い地域を保護地区とし、生活や交通を制限して、観光客にもそれを課した。こんな困難はあっても、今もこの山奥の史跡を訪れる人々は多い。
我々は中国自動車道を東上し、千代田JCTから浜田道に入り江津方面へ向かった。あとはカーナビのお世話になり、やっと石見銀山世界遺産センターに到着した。ここからは皆がバスに乗って、今は銀山資料館となっている大森代官所跡に行く。この界隈の居住地域を見て、電動自転車に乗って龍源寺間歩(まぶ)という抗口に行った。現在公開されている唯一の坑道だそうだ。坑道は明るく、よく整備してあった。ノミを振るった岩盤や奥深くまで堀り進んだ坑道はよく整備してあった。
大森の界隈は今やレトロな街並みを作って、観光客を招いている。中でも銀山の御用を司った熊谷家と役人だった河島家は、往時の家財道具を陳列していた。温泉津で一泊して、翌日は最大の大久保間歩を訪れる予定だったが、都合が悪くなり、遺産センターを見学して佐賀に帰った次第である。
2013年03月09日
田中久重、その足跡
田中久重: 4つのからくりと久留米の遺跡探訪
高崎洋三
長野暹先生の勧めもあって私が神奈川県川崎市にある東芝科学館を訪問したのは、2013年1月18日であった。河本信雄副館長の歓迎を受けて、東芝創始者の一人である田中久重の数々の作品を感嘆をもって見学した。以前国立科学博物館で茶運び人形や弓曳き童子といった彼の作品を見学したが、東芝科学館が所蔵している作品群は、久重の一生の作品とも言えるので興味深かった。久重の偉大さを実感できた。
翌日私は新幹線で名古屋に赴き、名鉄で犬山に向かった。ここは現存する日本最古の天守閣を持つ犬山城やモンキーセンターで有名であるが、めざすは「からくり展示館」であった。ここには各地の祭りでよく見られるからくり山車が多く展示してあったが、久重が作ったと同じような茶運び人形の実演がお目当てであった。この地で人形の製作に関わってこられた木偶師・九代目玉屋庄兵衛氏にも会えた。聞けば上記茶運び人形は当代の玉屋さんが作られたものだそうだ。現代随一の座敷からくり人形の制作者は大阪在住の東野進氏であり、九代庄兵衛氏も彼と共同でからくり製作に携わっているそうだ。九代に言わせれば「からくりは人形が命」だそうで、その美しさが玉屋の誇りであるようだ。久重のからくりは京大坂時代に作られたし、犬山、高山、そして名古屋(私も市内を巡って5体ほど見つけた)でお祭や観光用にからくり人形が楽しめるところを見ると、からくり人形は京で発明され(西洋から流入したとも言われる)中部地方で発達した芸能だと思う。久重は人気のある興業師だったようだし、常にからくりは庶民に愛される文化=在来知であった。
そして2月23日、河本信雄氏ほか2名の講師(富田紘次氏と半田利通氏)を招いての「世界遺産シンポジウム」がアバンセで行なわれた。河本氏の講演では、久重の幕末佐賀藩への貢献について調べられたものを話された。もっと話したかったようだし、そうして欲しかった。驚いたのは「久留米からくり会」の半田氏の講演で、このNPO法人は、独自に茶運び人形と弓曳き童子を製作され、当日も壇上で実演されたのだ。弓曳きは満足に動かなかったが、茶運びは見事に動いた。私にとってこの人形の実演を見るのは4回目であった(国立科博、東芝、犬山、久留米)。半田氏は講演の中で何度も「久重が佐賀藩に雇われて活躍したのが悔しい」と言われた。後で述べるが、久重は佐賀に居る間に久留米藩からスカウトされ、暫く佐賀と久留米を往復する生活だった。多忙な中でも彼は久留米藩の科学技術の発展に大いに尽くしたようである。
ついに私は久重の足跡を辿るべく、郷里久留米を歩いてみた。佐賀藩の近代化、というより日本産業の近代化の牽引者であった田中久重は、寛政11年 (1799年)久留米に生まれた。生誕の地は通町にあり、その記念碑は西鉄大牟田線の高架の下にある。近くに五穀神社があり、雑然とした家並みが続くが、久重の幼少期の良き遊び場と思える場所が多い。また彼が設立した久留米藩の製鉄所もこの近くにある。民家の軒先と思える場所に記念碑が立っており、気づかず通過するところであった。
久重は父親がべっ甲職人だったが、その職を継がずからくり職人の道を選んだ。そして京都に上り、成功を収めると共に、自鳴鐘や弓曳き童子といった精巧なからくり人形を製作した。佐野常民に請われて佐賀藩に仕えることになったのが54才になった嘉永5年のことである。それからの彼の活躍が、佐賀藩を我が国随一の軍事大国に押し上げたと言って過言ではない。そして元治元年、久重66才の時、久留米藩にも雇われることになり、以後月の半分は佐賀に在住し残り半分は久留米に赴いて、両藩の近代化に貢献した。上に示された写真は御井町にある久留米藩鋳造所跡の説明板である。傍らの石碑には「田中久重鋳砲所跡」となっているが。説明文を見て驚いた。ここでアームストロング砲を製造したとある。でもそれは銅製の大砲のようだが、撃った砲弾は3キロ飛んだと云われている。久留米での久重の活躍は「久留米からくり振興会」を中心に調査・研究されている。
最後に下図の万年自鳴鐘を紹介したい。側面は6面に分かれていて、それぞれ和時計、24節気表示板、七曜と時打ち表示、10干12支表示、旧暦日付と月齢表示、洋時計になっている。更に頭頂部は天球儀に、下面には時打ち用鐘が入っている。その下部にはゼンマイ収納部があるが、6面に七宝の飾り板が覆っている。写真では見にくいけれど、この飾り板は蒔絵や螺鈿がちりばめられており、時計全体が素晴らしい美術品であると言えよう。
もう一つ言いたい、久重は在来知を超えた大きな逸材である!
高崎洋三
長野暹先生の勧めもあって私が神奈川県川崎市にある東芝科学館を訪問したのは、2013年1月18日であった。河本信雄副館長の歓迎を受けて、東芝創始者の一人である田中久重の数々の作品を感嘆をもって見学した。以前国立科学博物館で茶運び人形や弓曳き童子といった彼の作品を見学したが、東芝科学館が所蔵している作品群は、久重の一生の作品とも言えるので興味深かった。久重の偉大さを実感できた。
翌日私は新幹線で名古屋に赴き、名鉄で犬山に向かった。ここは現存する日本最古の天守閣を持つ犬山城やモンキーセンターで有名であるが、めざすは「からくり展示館」であった。ここには各地の祭りでよく見られるからくり山車が多く展示してあったが、久重が作ったと同じような茶運び人形の実演がお目当てであった。この地で人形の製作に関わってこられた木偶師・九代目玉屋庄兵衛氏にも会えた。聞けば上記茶運び人形は当代の玉屋さんが作られたものだそうだ。現代随一の座敷からくり人形の制作者は大阪在住の東野進氏であり、九代庄兵衛氏も彼と共同でからくり製作に携わっているそうだ。九代に言わせれば「からくりは人形が命」だそうで、その美しさが玉屋の誇りであるようだ。久重のからくりは京大坂時代に作られたし、犬山、高山、そして名古屋(私も市内を巡って5体ほど見つけた)でお祭や観光用にからくり人形が楽しめるところを見ると、からくり人形は京で発明され(西洋から流入したとも言われる)中部地方で発達した芸能だと思う。久重は人気のある興業師だったようだし、常にからくりは庶民に愛される文化=在来知であった。
そして2月23日、河本信雄氏ほか2名の講師(富田紘次氏と半田利通氏)を招いての「世界遺産シンポジウム」がアバンセで行なわれた。河本氏の講演では、久重の幕末佐賀藩への貢献について調べられたものを話された。もっと話したかったようだし、そうして欲しかった。驚いたのは「久留米からくり会」の半田氏の講演で、このNPO法人は、独自に茶運び人形と弓曳き童子を製作され、当日も壇上で実演されたのだ。弓曳きは満足に動かなかったが、茶運びは見事に動いた。私にとってこの人形の実演を見るのは4回目であった(国立科博、東芝、犬山、久留米)。半田氏は講演の中で何度も「久重が佐賀藩に雇われて活躍したのが悔しい」と言われた。後で述べるが、久重は佐賀に居る間に久留米藩からスカウトされ、暫く佐賀と久留米を往復する生活だった。多忙な中でも彼は久留米藩の科学技術の発展に大いに尽くしたようである。
ついに私は久重の足跡を辿るべく、郷里久留米を歩いてみた。佐賀藩の近代化、というより日本産業の近代化の牽引者であった田中久重は、寛政11年 (1799年)久留米に生まれた。生誕の地は通町にあり、その記念碑は西鉄大牟田線の高架の下にある。近くに五穀神社があり、雑然とした家並みが続くが、久重の幼少期の良き遊び場と思える場所が多い。また彼が設立した久留米藩の製鉄所もこの近くにある。民家の軒先と思える場所に記念碑が立っており、気づかず通過するところであった。
久重は父親がべっ甲職人だったが、その職を継がずからくり職人の道を選んだ。そして京都に上り、成功を収めると共に、自鳴鐘や弓曳き童子といった精巧なからくり人形を製作した。佐野常民に請われて佐賀藩に仕えることになったのが54才になった嘉永5年のことである。それからの彼の活躍が、佐賀藩を我が国随一の軍事大国に押し上げたと言って過言ではない。そして元治元年、久重66才の時、久留米藩にも雇われることになり、以後月の半分は佐賀に在住し残り半分は久留米に赴いて、両藩の近代化に貢献した。上に示された写真は御井町にある久留米藩鋳造所跡の説明板である。傍らの石碑には「田中久重鋳砲所跡」となっているが。説明文を見て驚いた。ここでアームストロング砲を製造したとある。でもそれは銅製の大砲のようだが、撃った砲弾は3キロ飛んだと云われている。久留米での久重の活躍は「久留米からくり振興会」を中心に調査・研究されている。
最後に下図の万年自鳴鐘を紹介したい。側面は6面に分かれていて、それぞれ和時計、24節気表示板、七曜と時打ち表示、10干12支表示、旧暦日付と月齢表示、洋時計になっている。更に頭頂部は天球儀に、下面には時打ち用鐘が入っている。その下部にはゼンマイ収納部があるが、6面に七宝の飾り板が覆っている。写真では見にくいけれど、この飾り板は蒔絵や螺鈿がちりばめられており、時計全体が素晴らしい美術品であると言えよう。
もう一つ言いたい、久重は在来知を超えた大きな逸材である!
2012年03月22日
在来知佐賀歴史研究会のホームページ開設にあたって
在来知佐賀歴史研究会代表 青木歳幸
佐賀大学地域学歴史文化研究センターを中心とした文理融合型の研究者グループは、平成21年度より文科省科学研究費助成金(新学術領域)に応募を繰り返してきました。不幸にして採択に至りませんでしたが、上記の研究者は平成23年度より、佐賀県を中心とする在来知研究に焦点を絞り、新たな活動を始めました。ここでいう在来知とは、地域的特性をもって在来技術、在来産業、伝統文化などを形成し支えてきた知を呼んでいる。
本研究会の活動は、幕末日本の科学技術をリードしてきた佐賀藩の在来知を文理融合の視点から掘り起こしていこうというものであり、同時に九州・山口地域の近代化産業遺産群を世界遺産に登録する地域貢献にも取り組んできた。特に、佐賀に存続する在来技術にメスを入れ、従来報告されたものより新たな在来知を発掘しつつある。しかもそれが佐賀市民の熱心な研究成果を共に検証していく過程で認識されたものが多い。
Message at the Home Page opening of Association of Saga History of Indigenous Knowledge
Representative: Dr. Toshiyuki Aoki, (Prof. of the Center for Regional Culture and
Histology, Saga University, Japan)
Colleagues in both literature and science fields, composed mainly of members of Saga University, have kept application several years since 2009, for Grant-in-Aid for Scientific Research on Innovative Areas by Japanese Ministry for Education, Culture, Sports, Science and Technology. Unfortunately, our collaborative efforts were not adopted. However, the researchers have started new action since 2011 focusing history of “Zairaichi" around Saga Prefecture. We define here Zairaichi as indigenous knowledges which were performed region-specifically, to support traditional techniques and industries including traditional culture.
The aim of our Association is to elucidate Zairaichi driven by Saga Feudal Clan which lead Japanese science and technology in the last days of the Tokugawa Shogunate, through the literature-science. collaboration. On the other hand, we have contributed the movement to aim registration of the modernization industrial heritage groups of Kyuushu and Yamaguchi as World Heritage Site. In particular, we are focusing on traditional techniques surviving in Saga Area, to discover new indigenous knowledges which are different from those reported before. Furthermore, it is great that those new findings were carried on by Saga Citizens who have obtained wonderful results; we collaborate with them to proceed more fruitful step.